和泉国日根郡波有手村古家連家文書
名 称:和泉国日根郡波有手村古家連家文書(いずみのくにひねぐんぼうでむらふるやむらじけもんじょ)
種 類:有形文化財
所 在 地:阪南市尾崎町
指定年月日:令和6(2024)年5月30日
和泉国日根郡波有手村古家連家文書の旧蔵者であった古家連家の初代は、文政10(1827)年7月に波有手村(現阪南市)の古家勘次郎(かんじろう)の三男として生まれた古家信次郎(しんじろう)になります。信次郎は嘉永6(1853)1月に分家相続しますが、三男であったことからその家は三宅(さんたく)と呼ばれることもありました。
古家本家(歴代の勘次郎家)の家伝(かでん)によると、古家家はもともと桑畑村(現阪南市)で天安2(858)年から連綿(れんめん)と続いた家で、のちに波有手村に移住して、その当主は代々勘次郎を名乗ってきたといいます。
阪南市に残された古文書では延宝7(1679)年の波有手村検地帳(けんちちょう)に勘次郎の名前を確認できます。その後、宝暦9(1759)年に「百姓代(ひゃくしょうだい)勘次郎」、安永2(1773)に「年寄(としより)勘次郎」、安永9年に「庄屋(しょうや)勘次郎」、また波有手村が相給村(あいきゅうそん)であった時代では弘化3(1846)年から安政6(1859)年に「岸和田藩預地(あずかりち)庄屋勘次郎」と確認できることから、古家本家の家督を相続する勘次郎は、18世紀半ばから幕末まで百年余にわたって江戸時代の波有手村村政に関わってきたと考えられます。
勘次郎の三男古家信次郎は明治3(1870)年に近江三上藩領時代の波有手村「百姓代」、明治5(1872)年からは波有手村副戸長(ふくこちょう)、同14(1881)年には同村戸長(こちょう)を務めていたことがわかっています。
古家連家文書のうち850件の史料目録が昭和48(1973)年に刊行された『阪南町史資料目録第一集』に収録されていますが、同家文書は平成29(2017)年に阪南市に寄贈され、現在は阪南市教育委員会所蔵の文化財となっています。あらためて調査、整理しなおした結果、その総史料点数は7155点に及ぶことがわかりました。そのうち年代のわかる史料は5074点で、その内訳は江戸時代139点、明治元年~9年が995点、同10年~19年が3,195点、同20年以降688点、大正~昭和の史料57点となっています。明治時代前半の史料が文書全体の約6割を占めており、特に明治10年代の史料点数が多いことが古家連家文書の大きな特徴です。
明治時代の前半は、日本が近代国家として短期間に諸々の近代的諸制度を選択していった時代です。その時期は古家信次郎が波有手村の村政の担い手として、またその跡を継いだ信次郎の二男古家信一郎が波有手村戸長や山中村外9ヶ村連合村会議員として活動した時期にあたることから、本文書の持つ価値は大きく、阪南市に残された貴重な文化財だと言えます。このように評価されることから、本文書は令和6(2024)年5月30日に阪南市有形文化財に指定されました。
家伝:その家に言い伝えられた事柄、まだそれを記した書物。
連綿:長くひき続いて絶えないさま。
検地帳:検地の結果を村ごとにまとめた土地台帳。田畑や屋敷地一筆ごとに、その所在地・種類・品位・面積・石高(生産量)・年貢負担者名が記された。
庄屋・年寄・百姓代:いずれも江戸時代の村役人で、総称して村方三役と呼ぶ。庄屋は村の代表者、年寄は組頭ともいい庄屋の補佐役、百姓代は村民の代表として庄屋や組頭の運営をチェックした。
相給村:一つの村を複数の領主が支配する状態。
戸長・副戸長:ともに明治前期に区・町・村に置かれた行政事務の責任者。
諸願書留帳 明治7(1874)年
波有手村絵図 明治7(1874)年
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