泉福寺の梵鐘はいま

    山中正親が開発した山中新田 には、かつて泉福寺(せんぷくじ)という寺院がありました。元禄8(1695)年2月、山中新田村に寺院が無いため興善寺(こうぜんじ)の末寺である千福寺(せんぷくじ)の引寺(ひきでら)が認められ、同年12月に寺の名を「泉福寺」に改められました。泉福寺は現存していませんが、寺院跡は現在の泉南メモリアルパーク敷地に位置し、享保11(1726)年銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が数少ない名残です。

    泉福寺の往時を偲ぶものがもうひとつ岬町に残されています。前述の興善寺鐘楼堂(しょうろうどう)の梵鐘(ぼんしょう)です。四方向の各面に「泉州日根郡山中新田 中峯山泉福寺明王院」、「當(当)山創建山中正親(まさちか) 正徳五乙未歳(1715年)秋七月二十日」、「願主 摂州(せっしゅう)大坂住友吉左衛門(すみともきちざえもん) 同 同所 本山弥右衛門(もとやまやうえもん)」を陽鋳(ようちゅう)で、「當山現住義空代 紀州和歌山廣瀬口金屋 大工 杉本庄右衛門藤原家次作」を鋳造後に刻んで記しています。

    願主である「本山弥右衛門」は、宝永5(1708)年に検地を受けた山本新田を山中家と共同で開発した加賀屋(かがや)弥右衛門です。また、「住友吉左衛門」は本山家が経済的に苦しくなることで、享保13(1728)年に山本新田の経営権を得た泉屋(いずみや)吉左衛門です。梵鐘は河内(かわち)山本新田に関わった両者からの寄付で作られたことがわかります。

    『山中家文書(やまなかけもんじょ)』には明治期に属すると思われるいくつかの古文書に泉福寺梵鐘銘(めい)が残されており、上記と内容がほぼ一致します。記録のひとつには「ボタンカラシゝツリテジャガタチ四天王(してんのうじ)」とあり、実際の梵鐘も下部は牡丹(ぼたん)、唐獅子(からじし)、釣手(つりて)は竜頭(りゅうず)、各面には四天王の表現があります。

    この梵鐘は山中家が開発を担った2つの新田の歴史を物語る唯一の遺物です。

 

    山中新田:現在の南山中(阪南市箱作と岬町との間)あたりにあった近世の村。詳しくは『文化財あれこれ』 「山中新田」を参考。

    興善寺:現在の岬町谷川(たにがわ)に所在。

    引寺:名称、認可条件を公的に認められて旧寺から引き継がれた寺院。

    陽鋳:鋳型に逆字で彫り込み、鋳造で字を浮き上がらせたもの。

    杉本庄右衛門:杉は木へんに久のすぎ。「環境依存文字」で、視覚障がいがある方の『音声読み上げソフト』に対応しません。

    山本新田:現在の八尾市山本町付近。

興善寺山門

興善寺山門

梵鐘

梵鐘

梵鐘銘

泉福寺の文字が記された面

梵鐘銘

願主が記された面