石門心学の普及と尾崎

    「石門心学(せきもんしんがく)」は享保14(1729)年、石田梅岩(いしだばいがん)がはじめた神道・儒教・仏教を融合させて、道徳の実践を説く人生哲学です。日々生きていく拠り所となる実践的な教えを分かりやすく庶民に語り聞かせました。後に手島堵庵(てじまとあん)や中沢道二ら(なかざわどうに)の布教活動により、全国的に庶民層のみならず、武士層にも広がりました。

    和泉における教化活動は堵庵が堺で心学講釈をはじめ、道二も寛政5(1793)年以降、堺へ来講し、同じころ堵庵の子和庵(わあん)やその後を継いだ上河淇水(かみかわきすい)によっても拡大されました。

    寛政9(1797)年、尾崎村に正心舎と名付けられた心学講舎が設けられました。舎主や場所、活動状況の詳細は不明ですが、和庵・淇水の教化活動時代に設けられた中部、畿内、中国地方16ヶ国にあった32講舎のうちのひとつです。

    幕末になると河内・大和方面では衰退していきますが、堺・尾崎などでは継続・伸展をみせ、この間に柴田鳩翁(しばたきゅうおう)は身近なエピソードを絡めた分かりやすい話術で広く名声を博しました。尾崎には文政12(1829)年9月に赴き「総じて尾崎には旧社中もこれ有り、かつ、禅学の流行いたし候(そうろう)」と記しています。

 

    石田梅岩:貞享2(1685)年生、京都の商人で教育者。延享元(1744)年に亡くなる。

我津衛

手島堵庵が安政4(1775)年に刊行した『我津衛(わがつえ)』