山中家と河内山本新田

    宝永元(1704)年の大和川付け替え工事により、旧大和川跡では新田開発が行われました。現在の八尾市内を流れる玉串(たまくし)川の旧川跡は、箱作村の山中庄兵衛(しょうべえ)が、大坂平野町一丁目の本山弥右衛門(もとやまやえもん)と共同で新田開発を担いました。両者が共同で請け負った経緯は不明ですが、宝永2(1705)年の「河州玉櫛川御新田開発地内取替証文(かしゅうたまくしがわおんしんでんかいはつちないとりかえしょうもん)」には、開発地内の土地をすでに一部開墾(かいこん)している小坂合(こざかい)村との間に生じた土地の交換についての取り交わしが詳細に記録されていることから、この年までには新田開発が本格的に進んでいたことがわかっています。

    宝永5(1708)年にはこの新田で検地が実施されました。4年の歳月(さいげつ)を経て開発を成しとげた新田は、山中氏と本山氏の名前を一字ずつとって山本新田と名付けられました。

   その後、本山家が享保9(1724)年の大火で被災したこともあり、山本新田の田地や会所(かいしょ)などを抵当に入れ住友吉左衛門(すみともきちざえもん)から借り入れをしていましたが、享保13(1728)年に質流れとなり住友家へ経営権が移ることとなりました。元文5(1740)年には、山中家から住友家へ質流れに至るまでの諸事情を訴えつつ、庄兵衛の遺言として子孫が新田等の譲り戻しを願い出ましたが、住友家からは断られ、ついに山中家の元へ戻ることはありませんでした。

    近鉄河内山本(かわちやまもと)駅のほど近くには、山本新田に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)から応神天皇を勧請(かんじょう)した山本八幡宮が鎮座(ちんざ)しています。現在その敷地の一角には山中正永(まさなが)と本山重英(しげひで)から寄進された灯籠(とうろう)一対が残されています。

    次回は、河内(かわち)山本新田の開発に携わった人物に関連する遺物を紹介します。

 

    河州:河内のこと。

    享保9年の大火:現在の大阪市西区南堀江より出火し、市街の3分の2が焼失した。失火元の名前から妙知(みょうち)焼けとも言われている。

    会所:新田に関する管理運営などの事務を行う施設。

    石清水八幡宮:京都府八幡(やわた)市男山にある八幡宮。祭神は応神天皇。

    勧請:神仏の分霊(ぶんれい)を他の地へ移してまつること。

    山中正永:山中庄兵衛。

    本山重英:本山弥右衛門。

山本八幡宮

山本八幡宮(八尾市)

燈籠

寄進された灯籠

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習部 生涯学習推進室 生涯学習推進担当

〒599-0292
大阪府阪南市尾崎町35-1
電話:072-489-4542
Eメール:s-gakusyuu@city.hannan.lg.jp