山中家と河内山本新田(2020年11月)

 宝(ほう)永(えい)元(1704)年の大和川付け替え工事により、旧大和川跡では新田開発が行われました。現在の八尾市内を流れる玉串(たまくし)川の旧川跡は、箱作村(現阪南市箱作)の山中庄(しょう)兵衛(べえ)が、大坂平野町一丁目加賀屋(本山(もとやま))弥右衛門(やえもん)と共同で新田開発を担いました。両者が共同で請け負った経緯は不明ですが、宝永2(1705)年の「河州(かしゅう)玉(たま)櫛(くし)川(がわ)御新田(おんしんでん)開発地内取替(とりかえ)証文(しょうもん)」には、開発地内の土地をすでに一部開墾(かいこん)している小坂合(こざかい)村との間に生じた土地の交換についての取り交わしが詳細に記録されていますので、この年には新田開発が本格的に進んでいたことがわかっています。

 宝永5(1708)年にはこの新田で検地が実施されました。4年の歳月(さいげつ)を経て開発を成し遂(と)げた新田は、山中氏と本山氏の名前を一字ずつとって山本新田と名付けられました。

 その後、本山家が享保(きょうほう)9(1724)年の大火(たいか)(※1)で被災(ひさい)したこともあり、山本新田の田地や会所(かいしょ)(※2)などを抵当(ていとう)に入れ、泉屋(いずみや)(住友(すみとも))吉(きち)左(ざ)衛門(えもん)から借り入れをしていましたが、享保13(1728)年に質流れとなり住友家へ経営権が移ることとなりました。元文(げんぶん)5(1740)年には、山中家から住友家へ質流れに至るまでの諸事情を訴(うった)えつつ、庄兵衛の遺言(ゆいごん)として子孫が新田等の譲(ゆず)り戻しを願い出ましたが、住友家からは断られ、ついに山中家の元へ戻ることはありませんでした。

 近鉄河内(かわち)山本駅のほど近くには、山本新田に石(いわ)清水(しみず)(京都府八幡(やわた)市)から勧請(かんじょう)(※3)された山本八幡宮(はちまんぐう)が鎮(ちん)座(ざ)しています。現在その敷地の一角には山中正(まさ)永(なが)(庄兵衛)と本山重英(しげひで)(弥右衛門)から寄進された燈(とう)籠(ろう)一対が残されています。

 次回は、河内(かわち)山本新田の開発に携わった人物に関連する遺物(いぶつ)を紹介します。

 

※1享保9年の大火…現在の大阪市西区南堀江より出火し、市街の3分の2が焼失した。失火元の名前から妙(みょう)知(ち)焼けとも言われている。

※2会所…新田に関する管理運営などの事務を行う施設。

※3勧請…神仏の分霊(ぶんれい)を他の地へ移してまつること。

山本八幡宮

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燈籠

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