郷土が生んだ文人 石橋直之と「泉州志」

   江戸時代初期、尾崎村の大庄屋の吉田九右衛門清章(よしだきゅうえもんきよあき)は、泉州でも屈指の俳人で、泉郡池田郷万町(まんちょう)村の大庄屋伏屋重賢(ふせやしげかた)とともに俳壇(はいだん)で活躍していました。重賢は、後に国学の祖といわれる僧契沖(けいちゅう)を屋敷内に住まわせ、多くの古文書や古書籍を提供していたとのことです。この重賢は、その晩年にかねてからの念願であった泉州地方の歴史や地理を記した書の編纂(へんさん)を契沖に依頼しました。しかし、この時に契沖は、徳川光圀(とくがわみつくに)の命を受けて『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』を手掛けていたため、この依頼を断らざるを得ませんでした。重賢の死後、契沖は彼の遺志を実現したいと、尾崎村の吉田清章に相談し、隣村である下出(しもいで)の若き文人石橋直之(いしばしなおゆき)に依頼することとなりました。

    直之は幼少のころから学問を好み、文章も上手であったとのことです。また、草深い田舎に育ちながらも京に遊学し、漢詩や和歌、連歌、俳諧(はいかい)などを学び、当時一流の学者とも交流があったことが知られています。直之は、泉州に関する書物を読み、和泉国(いずみのくに)中を歩き回り、神社仏閣を歴訪してその見聞を広め、契沖の指導を受けて『泉州志(せんしゅうし)』の編纂に取り組みました。そして、元禄13(1700)年6年の歳月を掛けて完成させました。直之が44歳の時です。

    『泉州志』は和泉国4郡を6巻に分けて著されています。現在、その原本は大阪府立図書館に収蔵されています。コピーは市立図書館にもおかれていますので、興味のある方は、一度手にとって見られてはいかがでしょう。本市域の記述は、第6巻「日根郡(ひねぐん)・下」にあり、江戸時代初期の市域の概要をうかがうことができます。

    一方、この『泉州志』が完成するころ、直之は下出村の大願寺本堂再建にも力を尽くしたということです。彼の墓碑は大願寺にあります。

 

    吉田九右衛門清章:吉田家第4代。吉田家は尾崎村の開祖であると伝わっており、元は南姓を名乗っていたが後に吉田と改めた。元禄9(1696)年没。

    泉郡池田郷万町村:現在の和泉市万町。

    契沖:寛永17(1640)年、摂津国川辺郡尼崎(現兵庫県尼崎市)で生まれた。武士であったが父が浪人となった為、11歳で出家した。仏典、漢籍や日本の古典を多く読み、元禄14(1701)年に61歳で亡くなるまで古典の研究に勤しんだ。

    『万葉代匠記』:『万葉集(まんようしゅう)』の注釈書。

    和泉国4郡:時代によって変わるが、江戸時代には大鳥郡、泉郡、南郡、日根郡で構成される。

石橋家の墓(下出・大巌寺)

石橋家の墓(下出大願寺)

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