祇園南海と書 その2(2019年12月)

  祇園南海は延宝(えんぽう)4(1676)年、紀州藩のお抱え医師であった祇園順(じゅん)庵(あん)の子として江戸で生まれました。14歳で新井(あらい)白石(はくせき)、室鳩巣(むろきゅうそ)らの師であった木下順庵に師事しましたが、22歳の時に父が没したため家を継ぎ、紀州藩の儒学者(じゅがくしゃ※)に任命されて江戸を離れました。

  和歌山に帰ってからは本市下(しも)出(いで)出身の石橋直之(いしばしなおゆき)とも親交があり、直之の『泉州志』編纂(へんさん)にも関わったと伝えられています。

  しかし、元(げん)禄(ろく)13(1700)年、日頃の行いが悪いとして、家禄を召し上げられた上に、那賀(なが)郡長原村(現・貴志川(きしがわ)町)に流され、宝(ほう)永(えい)7(1710)年に和歌山城下に居住を許されるまで、習字の師匠として生計をたてていました。翌年、朝鮮(ちょうせん)通信使(つうしんし※)の接待役の任にあたり、その功績により家禄(200石)を戻されました。正徳(しょうとく)3(1713)年、 当時の紀州藩主徳川吉宗により学問所「湊(みなと)講(こう)舘(かん)」が設置されて督学(とくがく※)となり、寛(かん)延(えん)4(1751)年に76歳で病死するまで、藩の学事を担いました。

    南海の後半生は、平穏な生活を送り、多くの詩文や絵画を生み出し、文人画(ぶんじんが※)の先駆者(せんくしゃ)として著名になりました。

  なお、波(は)太(た)神社の手水(ちょうず)鉢(ばち)には「洗心(せんしん※)」と刻まれていますが、これも南海の筆跡といわれています。

 

  儒学者:孔子(こうし)を始祖とする儒教を学んだり、研究・教授する人 

  朝鮮通信使:慶長(けいちょう)10(1605)年以後、朝鮮国王が日本に派遣した使節で、文化(ぶんか)8(1811)年まで続いた

  督学:校長 

  文人画:教養のある知識人が描いた趣のある絵で、中国の明・清時代に制作された南宗画の影響を受け,南画とも呼ばれる

  洗心:心の塵(ちり)を洗い去り浄めること