一粒の種子 むくむくと茂り緑全土を覆ふ その2

 

    フランスカイガンショウの種子が遠く海外から箱作へ持ち込まれたのは、明治18(1885)年に濱口梧陵(はまぐちごりょう)がニューヨークで病死したことから始まります。

    ヤマサ醤油(しょうゆ)の7代目で、『稲(いな)むらの火』のモデルでもある濱口梧陵は有名ですが、梧陵が箱作村の山中家(やまなかけ)との縁があることは阪南市でもあまり知られていません。

    山中新田(やまなかしんでん)を開発した山中善太夫(ぜんだゆう)の子孫である山中幸三郎(こうざぶろう)は、梧陵の娘である道と結婚し、ヤマサ醤油8代目儀兵衛(ぎへえ)を継ぎました。

    8代目儀兵衛は、義父梧陵の遺品としてトランクを取り寄せたところ、中から不思議な大きな植物の種子を発見しました。儀兵衛は好奇心でその種子を濱口家の庭と実家のある山中新田の泉福寺(せんぷくじ)に蒔(ま)いたところ、数年経たずして大きな松が生育し、人々の好奇の目をそそりました。その松が「フランスカイガンショウ」という松でした。

 

    ヤマサ醤油:正保2(1645)年、初代濱口儀兵衛が紀州から銚子(ちょうし)に移り、廣屋(ひろや)儀兵衛商店として創業。代々儀兵衛の名を継ぐ。

    『稲むらの火』:地震後の津波から人々を逃れさせるため、五兵衛(ごへえ)という老人が、丘に積み上げられた稲の束に火をつけて暗闇のなかを誘導したという、小泉八雲(こいずみやくも)による英語小説を原案とした作品。尋常(じんじょう)小学校5年生の国語教科書に掲載されたことから有名になった。安政南海地震(1854年)後の津波に対する濱口梧陵の偉業が、小説の基になったと言われている。地震の後、梧陵は巨額な私財を投げ打ち、海岸に高さ約5m、長さ約600mの堤防を築いた。

    山中家:現在の阪南市箱作などで、江戸時代には庄屋役や大庄屋を、明治期には戸長を務める等、代々、地域での重役を担った。

    山中新田:現在の阪南市箱作の西部で、寛文3(1663)年に山中家が着手した新田開発で、延宝4(1676)年に竣工した。詳しくは、『文化財あれこれ』「山中新田」を参照。

    泉福寺:山中新田には寺がなかったため、元禄8(1695)年に谷川(たにがわ)村(現在の岬町谷川)興善寺(こうせんじ)末寺千福寺(せんぷくじ)を移し、後に「千」の字を「泉」の字に改めた。

 

 

尋常小学校5年生教科書

『稲むらの火』が掲載された国語教科書

広川堤防

梧陵が巨額な私財を投げ打って築いた堤防

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