山中新田

    本市の西端部、箱作と岬町淡輪(みさきちょうたんのわ)との境界部分に「南山中」という道路標識が見られます。江戸時代、当地の庄屋(しょうや)であった山中氏によって田畑として開発されたため「山中新田」ともいいます。「新田」とは、江戸時代に開発された耕地のことで、開発後3年間は租税が免除されました。

    もともと、箱作村と淡輪村との境付近は、「両村之山野場」で、大坂の唐物屋孫右衛門(からものやまごえもん)と箱作村の仁右衛門(じんえもん)の2人が両村から開発を引き受けましたが成功せず、山中庄兵衛(しょうべえ)に譲り渡したことに始まります。

    山中庄兵衛は、寛文3(1663)年に新田開発に着手、13年後の延宝4(1676)年に竣工(しゅんこう)し、時の領主であった青山因幡守(あおやまいなばのかみ)の検地を受けています。開発面積は6町(ちょう)8反(たん)1畝(せ)、収穫高は32石(こく)8斗(と)7升(しょう)3合(ごう)でした

    その後、さらに開発が行われ、宝永8(1711)年には、7町4反2畝2歩(ぶ)、収穫高35石3斗1升4合3勺(しゃく)に増えています。この開拓にあたっては、他の地域から流れ込んできた農民に家や牛、農機具などを貸し与えています。

   18世紀末の寛政期頃から甘蔗(かんしょ)作りと製糖業(せいとうぎょう)の展開により、農民の生活が安定、向上して、明治初期には家数は32軒となり、新田内に「泉福寺(せんぷくじ)」という寺院が建立されました。

    このようにして、先人たちの努力により荒野が耕地化されましたが、近年の開発行為で「山中新田」付近の田畑は、急速に住宅地に変わりました。

    6町8反1畝:約6.8㏊

    32石8斗7升3合:約4900kg

    7町4反2畝2歩:約7.4㏊

    35石3斗1升4合3勺:約5300kg

    甘蔗:サトウキビのことで、砂糖の原料となる。

絵図

天保8(1837)年の絵図 (山中家文書)

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