山中村境橋の仇討ち その1(2017年6月)

 大坂の日本橋を南下し、和泉(いずみ)国(のくに)山中村(現在の阪南市山中渓(やまなかだに))を経て紀州(きしゅう)(現在の和歌山県)に抜ける古い道は紀州(熊野(くまの))街道と呼ばれてきました。( )江戸時代末期、その街道の和泉国と紀州の国境(くにざかい)に架かる境(さかい)橋(ばし)のたもとで、仇討(あだう)ちがあったと伝えられています。(  )

 安政(あんせい)2(1855)年、土佐(とさ)(現在の高知県)藩士(はんし) 廣井(ひろい)大(だい)六(ろく)は、下男(げなん)の五助を連れて魚釣りに行った帰りに酒に酔った同藩士 棚橋(たなはし)三郎(さぶろう)にけんかを仕掛けられ、あえなく命を落としてしまいました。五助が奉行所(ぶぎょうしょ)に駆け込み三郎はすぐに捕(とら)えられましたが、死罪にはならず、土佐藩から追放(ついほう)となりました。( )

 江戸へ武者(むしゃ)修行(しゅぎょう)に出ていた大六の子 磐之(いわの)助(すけ)は帰国後これを知って仇討ちを決心し、同郷である坂本(さかもと)竜馬(りょうま)や高松太郎(たかまつたろう)(坂本(さかもと)直(なお))を通じて勝(かつ)海舟(かいしゅう)に助力(じょりょく)を願い出、仇討(あだうち)免状書(めんじょうしょ)ともいうべき書状(しょじょう)を書いてもらいました。( )そして仇(かたき)の三郎を探して各地を廻(まわ)り、大坂にたどり着いた時、三郎が江戸(えど)松(まつ)と改名して紀州加太(かだ)浦(うら)で人足(にんそく)として働いていることを知ります。( )

 磐之助は紀州藩の奉行所(ぶぎょうしょ)に書状を示し仇討ちの許可を得ようとしましたが、( )江戸松は投獄(とうごく)されたものの紀州藩での仇討ちは許可されず、( )藩から江戸松を紀州と和泉の国境である境橋より国(くに)払(ばら)いするので、( )仇を討ちたければ和泉国側で討(う)つように伝えられました。そして遂(つい)に文(ぶん)久(きゅう)3(1863)年6月2日、磐之助は紀州藩から国払いされた江戸松を境橋のたもとで討ち果たし、悲願(ひがん)を遂(と)げたのです。( )

境橋 境橋

現在の境橋

境橋の仇討ちの碑