承平5年2月1日 紀貫之 箱の浦を詠む

    「玉(たま)くしげ 箱の浦波 立たぬ日は 海を鏡と 誰か見ざらむ」

    この歌に登場する「箱の浦」は歌枕(うたまくら)のひとつで、昔から和歌に詠(よ)まれてきた名所でした。歌の意味は、「箱の浦に波が立つことのない日は、海を鏡のようだと思わない人がいるだろうか(誰もが思うだろう)」というものです。

    冒頭の一首は、『土佐日記』の承平5(935)年2月1日の条に見られます。

    「男(をとこ)もすなる日記といふものを、女(をむな)もしてみむとて、するなり」という一文で始まる『土佐日記』は、紀貫之(きのつらゆき)が土佐守(とさのかみ)として5年間の任務(にんむ)を終え、土佐から京の都へ帰る際の船旅を中心に日記形式で書いたものです。当時、和泉の国までの航路は海賊(かいぞく)なども出没する危険なものであり、紀淡海峡(きたんかいきょう)を越え、無事に箱の浦までたどり着き、目の前に広がる穏やかな海原(うなばら)を目にした時の喜びが感じられます。また、この歌の前には「今日(けふ)は箱の浦(といふ所より、綱手(つなで)曳(ひ)きて行く」という一文が見られ、箱の浦あたりでは、海岸沿いに綱で船を曳いて進めていたことがわかります。

    当時、日記は男が漢文体で書くものとされていました。しかし、『土佐日記』の中で何度も触れられている亡(な)き娘への悲しみは、仮名(かな)書きでなければ表現できないことを貫之は確信していたのでしょう。漢文体ではなく、仮名で自由に書かれた『土佐日記』は、言葉のエキスパートである貫之でなければ書けなかった作品です。

 

※本文引用:『新日本古典文学大系24』岩波書店

    箱の浦:現在の箱作付近の海岸

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鴻の台から望む箱作の海岸

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土佐日記の歌碑(加茂神社)

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