お菊のてまりうた その2(2016年4月)

 

   お菊(きく)が波有手(ぼうで)村の後藤家から紀州の山口家に嫁(とつ)いで間もなく、山口家は大坂夏の陣(1615年)で豊臣方につき、徳川方の和歌山城主浅野(あさの)長晟(ながあきら)から攻(せ)められようとしていました。お菊は婚家(こんけ)の危機を救おうと、援軍(えんぐん)を請(こ)うために密使(みっし)として大坂城に向かいます。紀伊(きい)山口を出て風吹峠(かぜふきとうげ)(和歌山県岩出(いわで)市)を越え、堀河(ほりご)(泉南市)から新家(しんげ)(同)の山中に入った所で、お菊は  長い黒髪を松の枝に掛けて若衆髷(わかしゅうまげ)に結い直し、男装(だんそう)したとのことです。その松は「お菊の髪結松(かみゆいまつ)」として語り継がれ、今はその場所に石(せき)碑(ひ)が建っています。( )

 出陣(  しゅつじん)した夫兵内(へいない)と大坂城での短い対面の後、再び豊臣方の密書(みっしょ)を携(たずさ)えて戻る途中、あろうことか樫井川(かしいがわ)(泉佐野市と泉南市の間)で密書を落としてしまいます。( )途方(とほう)に暮(く)れるようすが手まりうたの中でうたわれており、涙をさそいます。( )

  同じころ、山口家は浅野軍に鎮圧(ちんあつ)されました。夫の兵内(へいない)も大坂城内で戦死し、お菊も浅野方に捕えられました。( )浅野はお菊が嫁いで日が浅いため、助命しようとするのですが、( )お菊がそれを拒(こば)んだとのことです。夫に殉(じゅん)じ自ら命をなげうったお菊の命日は、慶長(けいちょう)20(1615)年6月6日となっています。( )

 後藤家は、お菊を憐(あわ)れんで木像を作り、菩提寺(ぼだいじ)である波有手の法福寺(ほうふくじ)に納めてその冥福(めいふく)を祈ったということです。この木像は寛政(かんせい)7(1795)年の火災で焼失しましたが、安政(あんせい)5(1858)年に村人の手により新たに造られ、法福寺本堂に今も安置されています。( )そのため、法福寺は「お菊寺」とも呼ばれています。( )

法福寺