お菊のてまりうた その2

 

    お菊が波有手(ぼうで)村の後藤家から紀州の山口家に嫁いで間もなく、山口家は大坂夏の陣(1615年)で豊臣方につき、徳川方の和歌山城主浅野長晟(あさのながあきら)から攻められようとしていました。お菊は婚家(こんけ)の危機を救おうと、援軍(えんぐん)を請うために密使(みっし)として大坂城に向かいます。紀伊(きい)山口を出て風吹峠(かぜふきとうげ)を越え、堀河(ほりご)から新家(しんげ)の山中に入った所で、お菊は 長い黒髪を松の枝に掛けて若衆髷(わかしゅうまげ)に結い直し、男装(だんそう)したとのことです。その松は「お菊の髪結松(かみゆいまつ)」として語り継がれ、今はその場所に石碑(せきひ)が建っています。

    出陣(しゅつじん)した夫の兵内(へいない)と大坂城での短い対面の後、再び豊臣方の密書(みっしょ)を携(たずさ)えて戻る途中、あろうことか樫井川(かしいがわ)で密書を落としてしまいます。途方に暮れるようすが手まりうたの中でうたわれており、涙をさそいます。

    同じころ、山口家は浅野軍に鎮圧(ちんあつ)されました。兵内も大坂城内で戦死し、お菊も浅野方に捕えられました。浅野はお菊が嫁いで日が浅いため、助命しようとするのですが、お菊がそれを拒(こば)んだとのことです。夫に殉(じゅん)じ自ら命をなげうったお菊の命日は、慶長20(1615)年6月6日となっています。

    後藤家は、お菊を憐(あわ)れんで木像を作り、菩提寺(ぼだいじ)である波有手の法福寺(ほうふくじ)に納めてその冥福(めいふく)を祈ったということです。この木像は寛政7(1795)年の火災で焼失しましたが、安政5(1858)年に村人の手により新たに造られ、法福寺本堂に今も安置されています。そのため、法福寺は「お菊寺」とも呼ばれています。

 

    風吹峠:和歌山市岩出(いわで)市に所在する峠。

    堀河:現在の泉南市堀河。

    新家:現在の泉南市新家。

    樫井川:泉佐野市と泉南市の間を流れる川。

 

法福寺

法福寺

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