お菊のてまりうた その1
波有手(ぼうで)で一番 六兵衛(ろくべえ)の子
六兵衛の娘は お菊(きく)とて
山口喜内(やまぐちきない)に 嫁に行て
行てから 七日もたたぬまに・・・・・
と古くから波有手に伝わる手まりうたは、戦国の世に波有手村で育った「お菊」という女性が時代の波に流され、その短い生涯を閉じるまでの悲しい物語になっています。
お菊は今から約400年前、時の関白(かんぱく)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)と淡輪(たんのわ)の地侍(じざむらい)である淡輪大和守(たんのわやまとのかみ)徹斎(てっさい)の娘こよの間に産まれたと言われています。
お菊が産まれてすぐに、秀次は秀吉の怒りに触れ、高野山(こうやさん)に幽閉(ゆうへい)されてしまいました。秀次はお菊との対面も許されないまま、秀吉に切腹を命じられ、小督局(おごうのうぼね)も京都三条河原で斬首(ざんしゅ)されました。お菊は生後間もないことや女子であることから難を逃れ、祖父徹斎の実家であった波有手村の後藤家に預けられました。そこで当主の六兵衛夫妻の元で大切に育てられたということです。
やがて、20歳に成長したお菊は、徹斎の薦(すす)めで紀伊の山口喜内の長男兵内(へいない)に嫁ぎました。山口家は山中渓(やまなかだに)から雄ノ山峠(おのやまとうげ)を越えたふもとの名草郡(なぐさぐん)一帯を支配し、その本拠地(ほんきょち)を山口村に置いていました。
しかし、幸せは束(つか)の間(ま)で、婚礼の数日後、折からの大坂夏の陣に、夫の兵内は豊臣方として出陣していきました。
次号に続く
波有手:現在の鳥取
豊臣秀次:豊臣秀吉(ひでよし)の甥で、後に養子になる。
淡輪大和守徹斎の娘こよ:秀次の側室となり小督局(おごうのつぼね)と称す。
淡輪:岬町淡輪。
名草郡:和歌山市の大部分。
山口村:和歌山市山口。
大坂夏の陣:慶長19(1614)年冬、元和元(1615)年夏の二度にわたって徳川氏が豊臣氏を攻め滅ぼした戦いを大坂の陣といい、前者が冬の陣、後者が夏の陣と呼ばれる。

お菊の像(法福寺)
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