紀州(熊野)街道に沿って

紀州(熊野)街道イラスト(はんなんマップ悠歩みちより) 作画:角田光和さん)

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紀州街道(熊野街道)

紀州(熊野)街道

大阪市内から南下し、本市山中渓、雄ノ山峠を越え、和歌山へ抜ける道は、近世期以降に紀州藩の参勤交代のため整備され、「紀州街道」と呼ばれていました。この道は、古代に難波、奈良の都と紀伊国などを結ぶ「南海道」として成立し、平安時代以降熊野詣が盛んになると、 天皇や公家たちの参拝所兼休憩所の王子が、山中渓にも2ヶ所設けられ、「熊野街道」 と呼ばれていた時期もありました。このように時代や用途に応じてその名を様々に変えている道といえます。

庚申堂

慶長10(1605)年に浄念上人によって開基されたと伝えられています。庚申信仰とは、60日に1回巡ってくる庚申の日の夜に眠ると命が縮むので、その日は眠らずに身を慎めば災難を逃れると言う道教の考えに基づくものです。奈良時代の末頃に日本に伝わり、江戸時代に入ると各地に庚申講がつくられ、供養のため庚申塔が各所に造立されました。庚申堂の裏手にも庚申塔が3基建てられています。

粥占い(庚申堂)

一年の最後の庚申の日(終庚申)に、お堂の前で行われます。米1升と番号をつけた節のない細い竹筒を一緒に鉄の鍋で炊き、竹筒に入った米粒の量で、翌年の各月の雨量と作物の出来具合を占います。古くからお行われてきたこの伝統行事は、今も和泉鳥取や山中渓の人たちによって受け継がれています。

波太神社伏拝の鳥居

波太神社伏拝の鳥居

熊野詣など、街道を経て他国へ参拝する人々が多くなった時代、遠方から波太神社を伏拝する風習が生まれました。波太神社伏拝の鳥居は、当時の波太神社の権威を示すものとして、今もJR和泉鳥取駅裏にその形をとどめています。

筆子塚

江戸時代になると生活水準の向上などに伴い、庶民にも教育機関が必要になり、全国的にも寺子屋・私塾などが開かれました。筆子塚は寺子屋の弟子達が先生のために建てた墓石です。現在も残る筆子塚から、下出村では文化期頃(1804~1818年)に石橋友香が、山中村では弘化期頃(1844~1848年)に、村内の与之助が寺子屋を開設していたことがわかります。

地福寺

浄土宗知恩院末寺で、本尊は江戸時代作の阿弥陀三尊像です。創建については不詳ですが、現在の本堂は明治維新の大改革で廃寺となった神光寺(波太神社の神宮寺)を明治18(1885)年に移築したものです。また、境内に建てられた子安地蔵堂には、熊野街道にあった地蔵堂王子の本尊である地蔵三尊像が祀られていて、安産の神としてしられています。境内に植えられた枝垂れ桜も有名です。

山中渓・田中家住宅

旧庄屋屋敷

築後150年以上といわれる江戸時代の建物です。現在は一部改修されていますが、広大な敷地には勇壮な構えの屋敷や土蔵、広い庭園等があり、泉州路屈指の屋敷です。

山中宿本陣跡

紀州公の参勤交代時に使用する旅宿である本陣があった場所です。現在は個人宅となっていますが、周囲の土塀、広大な庭の老木、正門前の幅広い溝などが現在も残っています。

山中渓の桜

約1,000本のソメイヨシノ、山桜が地元の人々により守られ、春には大勢の花見客でにぎわいます。夜にはライトアップされ、とても華やかです。

ホタル生息地

山中川では昔ホタルの乱舞が楽しめましたが、昭和43(1968)年頃からの河川付け替え工事の際、ホタルの餌であるカワニナ等の貝がいなくなってしまい、ホタルが見られなくなってしまいました。地域の人々はホタルを取り戻そうと取り組み、川の流れを緩やかにし、ホタルの幼虫やカワニナを放した結果、昔のようにホタルが見られるようになり、再びホタルの名所になりました。

道祖神(塞の神)

道祖神(塞の神)

山中渓集落の南入口に平石を屋根にした道祖神が祭られています。これは、街道を往来する人々の安全祈願と、集落(村)内に他所から病気や災いが入ってこないように願って建てられたものと考えられています。

わんぱく王国

JR山中渓駅前にあり、ローラー滑り台、恐竜、複合遊具、砦、芝生公園などを設け、また管理棟は学習室としての場を提供するなど、和泉山脈の自然の中で、おおいに森林浴を満喫できる憩いの場として親しまれています。

山中関所跡

山中関所跡

南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったことがわかります。当時の関所は、通行する人馬や荷物から通行税を徴収していました。山中の地は熊野街道の要所で、関所を設けるのにふさわしい場所であったようです。熊野への参詣者が増加していたこのころは、かなりの税収入が得られていたと思われます。

経塚

元法華堂があった場所に「永禄十二(1569)年九月吉日」と銘のある供養碑が建てられています。経塚とは経典を納めた塚で法華経が多く、立地は山頂や寺社の境内、辻や街道の傍らなどが好まれました。

修験道の行場

役小角(役行者)は奈良時代の人物で、修験道の開祖としてしられています。小角の葛城修行は、和歌山県友ヶ島から大和川の亀ノ尾までの28ヶ所の山中に、法華経二十八品(品:仏典の章節)を1品ずつ埋納したと伝えられています。その後、各所には修験者によって経塚が建てられ、「葛城二十八宿」と呼ばれました。成立は江戸時代中頃と考えられています。嘉永3(1850)年の『葛嶺雑記』には、阪南市山中渓には「信解品第四」を納めた、「入江宿除蔵王」という行場があったとの記載が見られます。ここには老木の桜があったことから、桜地蔵経塚とも呼ばれていました。現在は梵字と「文安五(1448)年八月吉日」の銘が刻まれた自然石碑が建てられています。

境橋

江戸時代末期の文久3(1863)年に仇討ちがあった場所です。土佐藩士廣井大六の子磐之助は勝海舟の後ろ盾を得て、父の仇である棚橋三郎の仇討ちを和歌山奉行に願い出ました。そして和歌山と和泉の国境であるこの境橋の和泉側での仇討ちが許可され、父の仇を討ち果たしました。

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