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現在の位置

浜(孝子越)街道に沿って

浜街道イラスト(はんなんマップ悠歩みちより) 作画:角田光和さん)

浜(孝子越)街道

浜(孝子越)街道

浜街道(別名、孝子越街道)は、泉佐野市を起点とし、浜づたいに田尻町、泉南市、本市の尾崎・箱作を過ぎ、岬町から孝子峠を越えて和歌山市内に通じる街道です。浜街道筋には往時を偲ばせる古い町並も見られ、趣ある風情を漂わせています。また、尾崎団地の横には明治37(1904)年に大阪府が建てた「孝子越街道」の道標が現在も残っています。

尾崎神社

本社本殿と若宮本殿が並び建つ前方に据えられている石燈籠に、元禄10(1697)年の銘があることや、本殿の建築様式からこの神社がおよそ300年前にはこの地にあったことがわかります。本社本殿は素戔鳴命を祭り、若宮本殿は八重事代命を祭るえびす神社で、本社本殿より少し後の時代(18世紀初め)に建てられたものであると考えられます。本殿前に建つ狛犬(吽形)の台座には「西畑村/石工源七」、また鳥居の柱には「大坂石工/御影屋治兵衛」の石工名が刻まれています。

西本願寺尾崎別院

西本願尾崎別院 元は善徳寺という草堂(小さな寺)でしたが、慶長3(1598)年、領主・桑山正勝の家臣・石田次郎左衛門が改築し、本願寺に寄進して尾崎御坊となりました。本尊は鎌倉時代作の阿弥陀如来立像です。元禄13(1700)年11月、火災に遭い、現在のものは宝永2(1705)年に再建されたものです。また正門前の石段は、最下段右側の石柱の銘から、文化14(1817)年に作られたことがわかります。

旧尾崎村役場

昭和初期に地元出身で当時の村長であった銭高善造の創業した銭高組によって尾崎村役場として建築され、当時この地方では見られぬ西洋文化を取り入れた豪華な建物でした。本館は鉄筋コンクリート地上2階、地下1階建てで、後に3階部分と前面の付属建物が増築されています。南海町役場、阪南町役場を経て、現在も尾崎住民センターとして使用されています。

旧鳥取銀行跡

旧鳥取銀行跡

日清戦争(1894~1895年)後、好景気を背景に銀行の新設が目立ち、阪南市域でも明治33(1900)年に鳥取銀行が設立されました。その後幾度かの銀行恐慌があり、地方小銀行として地方振興に貢献してきた鳥取銀行も、昭和2(1927)年公布の新銀行法の銀行集中政策により、昭和7(1932)年に上之郷銀行と合併して泉南銀行になりました。その後泉南銀行は昭和17(1942)年に阪南銀行に、阪南銀行は昭和20(1945)年に住友銀行に吸収合併されました。
旧鳥取銀行の建物は個人住宅となっていましたが、平成28(2016)年6月に解体されました。

勇夫善六の碑

天正18(1590)年、秀吉の小田原攻めの時、波有手村の善六が多大な功績を残し戦死しました。その恩賞として村人達は税金を減じられ、永くその恩恵を受けたことにより、元文4(1739)年に波有手村と新村の人々によって墓碑が建てられました。

法福寺

俗に「お菊寺」と呼ばれている、文亀元(1501)年創建の浄土宗寺院です。本尊は江戸時代に作られた阿弥陀如来三尊像です。

お菊木像

お菊木像 お菊は文禄4(1595)年、豊臣秀次と側室お督との間に生まれましたが、生まれて間もなく、秀次は太閤秀吉の怒りに触れ高野山に幽閉されたのち切腹を命じられ、母・お督も三条河原で斬首されました。お菊は生後間もないことや女であったため難を逃れ、祖父淡輪大和守徹斎の実家である波有手村の後藤家に預けられました。やがて成長したお菊が紀州の山口家に嫁いで数日後、夫・兵内は大坂夏の陣で和歌山城主浅野長晟に背き、豊臣側につき出陣しました。このため山口家は攻められ、お菊は大坂方の援軍を請うために密使として大坂城に向かい、使命を果たしました。しかし実家である後藤家に着いたお菊は山口一族の斬首、夫の討死を知らされ、自身も浅野方に捕らえられました。浅野は助命しようとしましたがお菊はそれを拒み、元和元(1615)年、処刑され短い生涯を閉じました。波有手村の後藤家の養母がお菊を哀れんで木像を作り後藤家の菩提寺である法福寺に納め冥福を祈りました。法福寺は寛政7(1795)年に火災で焼失し、お菊の木像もその際に焼失したのですが、安政5(1858)年に村人の手により新たに作られ、現在も祀られています。

西鳥取観音堂

天正13(1585)年の秀吉の根来寺攻めのとき、波有手村にあった道弘寺の僧が反抗し斬首され、寺は焼かれたと伝えられ、焼け残った観音堂と二階堂は元禄年間(1688~1704年)に鳥取の村中に移されたといわれています。現在、鳥取の正行寺に建つ観音堂は天保14(1843)年、木村九衛門宗七の寄進により建てられたものです。

十一面観音菩薩立像(西鳥取観音堂)

本尊の十一面観音菩薩立像は平安時代の作で、高さ161.7cmの檜の一木造で頭上には宝冠を頂き、右手を垂下し、左手には華瓶を持っています。ほぼ千年の時をへて今に残る、本市内でもひときわ優れた仏像といえるでしょう。

貝掛松碑

、この地にかつて高さ約10m、太さ約6m、樹齢500年の、江戸時代の絵図にも描かれている松の大木が生えていて、その松にまつわる伝説や由緒、貝掛の地名の由来が刻まれています。元は松と石碑は海岸近くにあり、昭和の初めに現在地に移されましたが、風化が激しく、平成9(1997)年地元の人々によって石碑は建て替えられました。碑文は明治30(1897)年9月に播磨国(兵庫県)の近藤美という人物によって書かれています。

指出森神社

指出森神社

元は貝掛神社と称し、応神天皇を祭る八幡宮でしたが、天授年間(1375年ごろ)に火災にあい、祭神を波太神社に移し、その跡地に小社を建てたと伝えられています。現在も指出森神社には、昔の面影を偲ばせる趣ある風情が残っており、社近くの「鎮守の森」も、ひっそりとしたたたずまいを見せています。

箱作今池遺跡

和泉山脈から大阪湾に派生する丘陵上にある、奈良時代から江戸時代にかけての集落遺跡です。箱作越街道、浜(孝子越)街道にも面し、また漁業、海上交易にも適した立地条件を備えているので、古代より交通の要所であったと考えられます。

宗福寺

創建は不明ですが浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如です。

飯ノ峯畑地蔵菩薩座像 (平成56年6月1日大 阪府指定有形文化財)

飯ノ峯畑地蔵菩薩座像

平安時代後期に作られた像高52cmの地蔵座像で、衣のひだには、翻波様という技法が見られる。明治の初年までは飯峯畑の地蔵寺に祀られていた。

加茂神社 (昭和45年2月20日 大阪府指定有形文化財)

加茂神社 下荘地区は古代末から中世期にかけて京都の上賀茂神社の荘園であった。本社は社伝によると弘仁4(813)年に創建されたものといわれる京都上賀茂神社を模して創建された桧皮葺の本殿は安土桃山時代の建築で、燈籠とともに大阪府の指定を受けている。

「石造 地蔵菩薩立像(応永十年銘)」(箱作共同墓地)                                                                     (平成18年2月28日阪南市指定有形文化財)

箱作共同墓地は、昔から存在する墓地の中では市内最大で、和泉砂岩で作られた墓石を始め、多くの石造物が残っています。中でも応永10(1403)年11月22日に、宗一禅尼が願主となり造立された和泉砂岩製の地蔵石仏は、紀年銘石造物としては市内最古のものです。全高73cm、像高45cmの像は、小さいながらも浮彫りが深く、しっかりした石仏で、長年の風雨にも耐え続け、今に形をとどめています。

田山遺跡

箱作海水浴場付近の田園地帯は田山と呼ばれています。田山遺跡は、奈良時代から江戸時代にかけての遺跡で、製塩土器、蛸壷などの漁業に関する遺物や、中国製陶磁器などが出土しています。

遊来の滝

田山稲荷神社のすぐ横を流れる田山川下流にあります。落差は9mほどですが、水しぶきは夏の暑さを忘れさせてくれます。

田山稲荷神社

旧26号線脇に鳥居を構えて参道とし、境内には本殿まで数基の鳥居が続きます。寛保年間(1741~1744)、田山の姥ヶ谷に伏見稲荷より分霊を勧請したと伝えられています。明治26(1893)年に現在の場所に移りました。

せんなん里海公園

里海とは、大自然や荒々しい自然ではなく、半自然・中自然の里山のように、人間が海と共にくらしてきた文化が色濃く残されているような、里とその海辺を表しています。箱作海水浴場を始め、汐干狩りやビーチバレーを楽しめる砂浜、バーベキューコーナー、芝生広場や海辺の森など、一年を通じて自然を身近に感じる事ができます。

ヒトモトススキ (平成17年3月24日 阪南市指定天然記念物)

ヒトモトススキ 関東地方以西、四国、九州の海岸に群生する大型のカヤツリグサ科の多年草で朝鮮半島、中国南部、東南アジアにも分布します。茎は高さ2m、ややコルク質の実をつけ、葉は幅広い線型で長さ1mにもなり、その鋭い葉は、イノシシさえも切れる程だという意味で別名シシキリガヤともいわれます。大阪府下でも以前は海岸沿いに多数見られましたが、現在では東大阪市と本市の箱作海水浴場付近に残るのみとなっています。
お問い合わせ先

生涯学習部 生涯学習推進室

〒599-0292
大阪府阪南市尾崎町35-1
電話:072-471-5678(代表)
Eメール:s-gakusyuu@city.hannan.lg.jp

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