祇園南海は延宝4(1676)年、紀州藩のお抱え医師であった祇園順庵の子として江戸で生まれました。14歳で新井白石、室鳩巣らの師であった木下順庵に師事しましたが、22歳の時に父が没したため家を継ぎ、紀州藩の儒学者に任命されて江戸を離れました。
和歌山に帰ってからは本市下出出身の石橋直之とも親交があり、直之の『泉州志』編纂にも関わったと伝えられています。
しかし、元禄13(1700)年、日頃の行いが悪いとして、家禄を召し上げられた上に、那賀郡長原村(現・貴志川町)に流され、宝永7(1710)年に和歌山城下に居住を許されるまで、習字の師匠として生計をたてていました。翌年、朝鮮通信使の接待役の任にあたり、その功績により家禄(200石)を戻されました。正徳3(1713)年、 当時の紀州藩主徳川吉宗により学問所「湊講舘」が設置されて督学となり、寛延4(1751)年に76歳で病死するまで、藩の学事を担いました。
南海の後半生は、平穏な生活を送り、多くの詩文や絵画を生み出し、文人画の先駆者として著名になりました。
なお、波太神社の手水鉢には「洗心」と刻まれていますが、これも南海の筆跡といわれています。
儒学者:孔子を始祖とする儒教を学んだり、研究・教授する人
朝鮮通信使:慶長10(1605)年以後、朝鮮国王が日本に派遣した使節で、文化8(1811)年まで続いた
督学:校長
文人画:教養のある知識人が描いた趣のある絵で、中国の明・清時代に制作された南宗画の影響を受け,南画とも呼ばれる
洗心:心の塵を洗い去り浄めること
波太神社手水鉢