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山中新田(2018年11月)

 本市の西端部、岬町(みさきちょう)淡輪(たんのわ)との境界(きょうかい)()分に「南山中(みなみやまなか)」という道路標識が見られます。江戸(えど)時代、当地の庄屋(しょうや)であった山中氏によって田畑として開発(かいはつ)されたため「(やま)中新田(なかしんでん)」ともいいます。「新田」とは、江戸時代に開発された耕地(こうち)のことで、開発後3年間は租税(そぜい)(めん)(じょ)されました。

 もともと、箱作(はこつくり)村と淡輪村との(さかい)付近は、「両村之山野場」で、大坂の(から)(もの)()()()()(もん)と箱作村の(じん)右衛門(えもん)の2人が両村から開発を引き受けましたが成功(せいこう)せず、山中(しょう)兵衛(べえ)(ゆず)(わた)したことに始まります。

 山中庄兵衛は、(かん)(ぶん)3(1663)年に新田開発に着手(ちゃくしゅ)、13年後の延宝(えんぽう)4(1676)年に竣工(しゅんこう)し、時の領主(りょうしゅ)であった青山(あおやま)因幡守(いなばのかみ)検地(けんち)を受けています。開発面積は6(ちょう)8(たん)1()(約6.8ha)、収穫(しゅうかく)(だか)は32(こく)8()7(しょう)3(ごう)(約4,900kg)でした。

 その後、さらに開発が行われ、(ほう)(えい)8(1711)年には、7町4反2畝2歩(約7.4ha)、収穫高35石3斗1升4合3(しゃく)(約5,300キログラム)に増えています。この開拓(かいたく)にあたっては、他の地域から流れ込んできた農民に家や牛、農機具などを貸し与えています。

 18世紀末の寛政(かんせい)期頃から甘藷(かんしょ)作りと製糖業(せいとうぎょう)の展開により、農民の生活が安定(あんてい)向上(こうじょう)して、明治(めいじ)初期には家数は32軒となり、新田内に「(せん)福寺(ぷくじ)」という寺院(じいん)建立(こんりゅう)されました。

 このようにして、先人(せんじん)たちの努力(どりょく)により荒野が耕地化(こうちか)されましたが、近年の開発行為で「山中新田」付近の田畑は、急速(きゅうそく)に住宅地に変わりました。

 

※甘蔗:サトウキビのことで、砂糖の原料となる

絵図

天保8(1837)年の絵図(山中家文書)

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