秀吉の天下統一と勇夫善六

    羽柴秀吉(はしばひでよし)は天下統一の名のもとに全国各地の反対勢力の制圧に乗り出し、天正13(1585)年には四国の長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)、2年後には九州の島津義久(しまづよしひさ)を平定(へいてい)しました。

   これらの遠征(えんせい)に必要な物資や兵の輸送は、秀吉の勢力下(せいりょくか)にある漁村に浦役銭(うらやくせん)、水主役(かこやく)などが割り当てられ、尾崎(おざき)村・波有手(ぼうで)村(新村(しむら)を含む)では、浦(うら)(海岸(かいがん))の長さから浦役銭40貫(かん)800文(もん)、船18艘(そう)、水主40人を太閤検地(たいこうけんち)によって負担(ふたん)することになっていました。

    天正18(1590)年、秀吉は小田原(おだわら)の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)父子を攻め、降伏させました。その攻撃(こうげき)では、波有手村の水主 善六(ぜんろく)が従軍(じゅうぐん)して戦死しており、恩賞(おんしょう)としてこれ以降、浦役銭1貫と水主1人を減免(げんめん)したということです。

    この功をたたえ、元文4(1739)年、波有手村に「勇夫(ゆうふ)善六」の碑(ひ)が建てられました。

   

    羽柴秀吉:後の豊臣秀吉。

    水主:船員のこと。

    太閤検地:秀吉が全国的に行った土地の測量調査(そくりょうちょうさ)で、天正10(1582)年から開始されました。土地の種類・面積・等級(とうきゅう)などが調べられ、それらに応じて税がかけられました。

西鳥取漁港の東にある「勇夫善六」の碑

勇夫善六の碑

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