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秀吉の天下統一と勇夫善六(2017年9月)

 羽柴秀吉 はしばひでよし)(後の豊臣(とよとみ)秀吉)は天下(てんか)統一(とういつ)の名のもとに全国(ぜんこく)各地(かくち)反対(はんたい)勢力(せいりょく)(せい)(あつ)に乗り出し、(てん)(しょう)13(1585)年には四国の長曽我部(ちょうそかべ)元親(もとちか)、2年後には九州の島津(しまづ)(よし)(ひさ)平定(へいてい)しました( )

 これらの遠征(えんせい)に必要な物資(ぶっし)や兵の輸送(ゆそう)は、秀吉の勢力下(せいりょくか)にある漁村(ぎょそん)浦役銭(うらやくせん)水主(かこ)(船員)(やく)などが割り当てられ、尾崎(おざき)村・波有手(ぼうで)村((しん)村を含む)では、(うら)海岸(かいがん))の長さから浦役銭40(かん)800(もん)(ふね)18(そう)、水主40人を太閤(たいこう)検地(けんち)によって負担(ふたん)することになっていました。

 天正18(1590)年、秀吉は小田原(おだわら)北条(ほうじょう)(うじ)(まさ)(うじ)(なお)父子を攻め、降伏させました。その攻撃(こうげき)では、波有手村の水主 (ぜん)(ろく)従軍(じゅうぐん)して戦死(せんし)しており、恩賞(おんしょう)としてこれ以降(いこう)、浦役銭1貫と水主1人を減免(げんめん)したということです。

 この(こう)をたたえ、元文(げんぶん)4(1739)年、波有手村に「勇夫(ゆうふ)善六」の()が建てられました。

 ※太閤検地・・・秀吉が全国的に行った土地の測量(そくりょう)調査(ちょうさ)で、天正10(1582)年から開始(かいし)されました。土地の種類(しゅるい)面積(めんせき)等級(とうきゅう)などが調べられ、それらに応じて(ぜい)がかけられました( )

西鳥取漁港の東にある「勇夫善六」の碑

西鳥取漁港の東にある「勇夫善六」の碑

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