大坂の日本橋を南下し、和泉国山中村(現在の阪南市山中渓)を経て紀州(現在の和歌山県)に抜ける古い道は紀州(熊野)街道と呼ばれてきました。江戸時代末期、その街道の和泉国と紀州の国境に架かる境橋のたもとで、仇討ちがあったと伝えられています。
安政2(1855)年、土佐(現在の高知県)藩士 廣井大六は、下男の五助を連れて魚釣りに行った帰りに酒に酔った同藩士 棚橋三郎にけんかを仕掛けられ、あえなく命を落としてしまいました。五助が奉行所に駆け込み三郎はすぐに捕えられましたが、死罪にはならず、土佐藩から追放となりました。
江戸へ武者修行に出ていた大六の子 磐之助は帰国後これを知って仇討ちを決心し、同郷である坂本竜馬や高松太郎(坂本直)を通じて勝海舟に助力を願い出、仇討免状書ともいうべき書状を書いてもらいました。そして仇の三郎を探して各地を廻り、大坂にたどり着いた時、三郎が江戸松と改名して紀州加太浦で人足として働いていることを知ります。
磐之助は紀州藩の奉行所に書状を示し仇討ちの許可を得ようとしましたが、江戸松は投獄されたものの紀州藩での仇討ちは許可されず、藩から江戸松を紀州と和泉の国境である境橋より国払いするので、仇を討ちたければ和泉国側で討つように伝えられました。そして遂に文久3(1863)年6月2日、磐之助は紀州藩から国払いされた江戸松を境橋のたもとで討ち果たし、悲願を遂げたのです。
現在の境橋
境橋の仇討ちの碑