山中渓は、江戸時代には紀州街道沿いに20余件の旅宿が建ち並ぶ宿場町として栄えました。また、街道と並行して流れる山中川には、古くから「川の傍らに冷泉が湧く」との言い伝えがあり、胃腸病、神経痛などに効験のある鉱泉が湧き出していました。
昭和5(1930)年、阪和電気鉄道(現JR西日本阪和線)が東和歌山駅(現在のJR和歌山駅)まで延伸し、山中渓駅が開設されるのですが、その翌年の7月には、山中川の清流を臨む地に温泉旅館「ほととぎす」が開業しています。「ほととぎす」は、朱塗りのささやき橋を渡ると木々や石を配した庭園が広がり、後に当時としては珍しい奇石怪岩を組立てた大岩窟風呂「岩戸湯」を設け、建物も増築を重ねて、100畳と40畳の大宴会場をはじめ、40もの客室を数える大旅館へと成長していきます。
この「ほととぎす」の成功を契機として、趣向を凝らした温泉旅館が次々と建てられます。桜花満開の頃は京都清水寺の舞台の観があり、浴室からは紀泉アルプスや松林を展望できる「阪和館」。後ろに山、前の渓流には、朱色のみかえり橋が架かり、透き通ったお湯の「水晶風呂」が自慢の「山中荘」。眺望絶佳を誇り、広大な池での魚釣りやボート遊びが楽しめる、納涼には最高の「つるのや」。その名の通り、正面に極彩色の竜宮、左右に乙姫と浦島太郎を描いた「竜宮風呂」で客の目を楽しませ、また別館からは山中渓の全景を眺望することができた「元禄」。これらの旅館には、「ほととぎす小唄」、「山中荘音頭」などのPRソングもでき、最盛期には、芸者さんや仲居さんが赤い前掛けをして、山中渓駅前で温泉客を出迎えたとのことです。このように山中渓温泉は、昭和30年代には「大阪の奥座敷」とまで言われ、温泉街は活況を呈し、銀の峰ハイキングコースやテント村などでは、アウトドア・レジャーも盛んに行なわれていたようです。
春には桜、夏には納涼とアウトドア・レジャー、秋には紅葉と松茸、冬には温泉と四季それぞれの魅力があり、休日には臨時のハイキング列車も運行するほどの賑わいを見せていた山中渓温泉街でしたが、「ほととぎす」では室戸台風によりささやき橋が流され、建物などにも大きな被害がもたらされます。「山中荘」は、阪和自動車道の建設により消滅。「阪和館」も、府道拡張工事で道路用地となるなど、時代の流れにのみ込まれていきます。また一方では、松喰虫による被害で赤松が枯れ、松茸も出なくなるなど、負の連鎖により旅館街は廃れ、温泉郷には自然だけが残されました。しかし、近年、桜の植樹やハイキングコースの整備、ホタルやアユの放流など、その残された自然を活用しようとする活発な動きが見られ、さくら祭りやホタルの舞う里として親しまれています。
山中渓温泉の案内板
山中渓駅前の観光案内
「ほととぎす」と「阪和館」の入口
「ほととぎす」