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お菊のてまりうた その1(2016年3月)

 

  波(  ぼ)()()で一番 (ろく)兵衛(べえ)の子

  六兵衛の娘は お(きく)とて

  山(  やま)(ぐち)()(ない)に 嫁に行て

  行てか( ) 七日もたたぬまに・・・・・

  と古くから波有手(阪南市鳥取)に伝わる手まりうたは( )戦国の世に波有手村で育った「お菊」という女性が時代の波に流され( )その短い生涯を閉じるまでの悲しい物語になっています( )

  お菊は今から約400年前( )時の関白(かんぱく)豊臣(とよとみ)(ひで)(つぐ)豊臣(とよとみ)(ひで)(よし)(おい)で、後に養子となる)と淡輪(たんのわ)(岬町淡輪)の地侍(じざむらい)である淡輪大和守徹斎(たんのわやまとのかみてっさい)の娘こよ(秀次の側室となり小督局(おごうのつぼね)と称す)の間に産まれたと言われています( )

  お菊が産まれてすぐに( )秀次は秀吉の怒りに()( )高野山(こうやさん)幽閉(ゆうへい)されてしまいました。秀次はお菊との対面も許されないまま( )秀吉に切腹を命じられ( )小督局も京都三条河原で斬首(ざんしゅ)されました。お菊は生後間もないことや女子であることから難を逃れ( )祖父徹斎の実家であった波有手村の後藤家に預けられました( )そこで当主の六兵衛夫妻の元で大切に育てられたということです( )

  やがて、20歳に成長したお菊は、徹斎の(すす)めで紀伊の山口喜内の長男兵内(へいない)(とつ)ぎました( )山口家は山中渓(やまなかだに)から()ノ山(のやま)(とうげ)を越えたふもとの名草郡(なぐさぐん)(和歌山市の大部分)一帯を支配し( )その本拠地(ほんきょち)を山口村(和歌山市山口)に置いていました。

 しかし、幸せは(つか)()で、婚礼の数日後折からの大坂夏の陣(1615年)に、夫兵内は豊臣方として出陣していきました( )

                                                        次号に続く

お菊の像(法福寺)

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