近世の阪南市では、名産和泉石(和泉砂岩)を使った石細工を始めとして、瓦造り、綿織物、干鰯(小魚を干した乾燥肥料)の生産など、特色ある産業が行われていました。
もともと泉南地域は、綿作・綿織物生産地として全国的に知られていましたが、中でも紋羽織という特色のある綿織物が作られました。紋羽織は、厚手の綿布を松葉や針などで起毛したもので、防寒用の織物として襦袢・股引・頭巾・足袋などに用いられていました。
当時の史料によると、安永年間(1772-81)には、阪南市域の下荘地区を除く旧10ヵ村で、織元(製造者)1戸であったものが、約60年後の天保年間には40戸になったとあります。また、天保13(1842)年2月の自然田村の史料では「5月から6月までの期間は紋羽織の生産をやめ、農業だけに従事すること」と制限されていた事がわかります。それほど盛んに生産されていたのでしょう。
幕末に紋羽織の生産は一時衰退しますが、明治に入って軍服の裏地として使われるようになり、西南戦争(1877)による軍需増大とインフレの景気で急激な発展をみました。その後、明治30年頃からは足袋裏用の生地として三度目の生産ピークを迎えます。そのころの生産体制は、かつての問屋制家内工業(原材料の前貸しを受けた小生産者が自宅で加工を行うこと)から工場制家内工業(工場に労働力を集結させ製品を生産すること)に移り、後の繊維産業へと引き継がれていきます。
紋羽織
チーゼル(マツムシソウ科の植物で、乾燥して硬化した果穂を織物の起毛材として使用)
紋羽織の商標