天正5年3月2日 織田信長 波太神社に布陣

    天正5(1577)年2月3日、織田信長は京都を出立して和泉(いずみ)を南下、22日には信達(しんだち)に陣を置き山手と浜手に分かれ更に南下を続けていきました。

    山手には佐久間右衛門信盛(さくまうえもんのぶもり)・羽柴筑前(はしばちくぜん)・荒木摂津守村重(あらきせっつのかみむらしげ)・堀久太郎秀政(ほりきゅうたろうひでまさ)らが山中から雄山峠(おのやまとうげ)を越えて進軍、雑賀の内へ乱入し端々まで焼き払いました。堀は小雑賀川(こざいかがわ)を挟み対峙(たいじ)した敵方に攻め入るも、岸が高く攻めきれず退却を余儀(よぎ)なくされ、先陣の通行を守るために紀ノ川の渡り口に陣が敷かれました。

      一方、浜手には滝川左近一益(たきがわさこんかずます)・惟任日向(これとうひゅうが)・惟住五郎左衛門(これずみごろうざえもん)・筒井順慶(つついじゅんけい)らが、さらに信長の子息である織田信忠・信雄(のぶかつ)・信孝、信長の弟である信包(のぶかね)も参加し、淡輪口(たんのわぐち)から更に三方に分かれて山や谷に分け入りました。28日、信長は淡輪まで進軍。雑賀一揆はこれを見て中野城を放棄、同月晦日(みそか)に淡輪を出立(しゅったつ)。3月1日に滝川、明智、丹羽らに鈴木孫一(すずきまごいち)の城を昼夜問わず攻めさせました。3月2日、信長本人がどの方面にも動きやすいように鳥取郷(とっとりごう)の若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)に本陣をすえました。この陣で信長は堀らを小雑賀、紀ノ川に続く山手に陣取らせました。その後、鈴木ら雑賀の7頭目(とうもく)は降伏(こうふく)、3月21日に信長は陣を払い京へ戻っています。

    この時の行軍の記録は、織田信長の家臣、太田牛一(おおたぎゅういち)が信長の行動を記した『信長公記(しんちょうこうき)』巻10に見ることができます。

 

    信達:現在の泉南市にある地名。熊野街道信達宿があった。

    羽柴秀吉:後の豊臣秀吉。

    小雑賀川:現在の和歌川(和歌山市)。

    惟任日向:後の明智光秀。

    惟住五郎左衛門:後の丹羽長秀。

    淡輪口:現在の岬町淡輪。

    中野城:和歌山市中野。

    晦日:旧暦でその月の末日。

    若宮八幡宮:波太神社のこと。

波太神社

波太神社

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