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南北朝の動乱に消えた井山城 その2(2019年7月)

 井()山城(やまじょう)の守備を任されたのは、鎌倉時代中頃から(たん)(のわ)公文(こうぶん)職※を代々担った淡輪(もとの姓は(たちばな))氏でした。同氏による「淡輪文書」や、各一族の(ぐん)忠状(ちゅうじょう)※からは、当時の戦況や井山城が歩んだ歴史が見えてきます。

 淡輪正円(しょうえん)は南北朝の動乱が本格化する前に北朝方につき、その恩賞なのか、淡輪荘東方下司(げし)職※が与えられ、淡輪荘領主としての地位を得ました。

 南北朝動乱(1336年~)後は、淡輪(しげ)(うじ)が北朝方として参戦し、以後、各地の戦乱にも赴いたようです。その中で井山城の守備は、重氏の跡目を継いだ淡輪助重(すけしげ)が担いました。しかし観応(かんのう)元(1350)年、足利(あしかが)(たか)(うじ)方と弟の(ただ)(よし)との対立からはじまった混乱のなかで、淡輪氏の本家筋である助重もこれまでの北朝方から一転し、南朝方につきました。一方、分家筋である重継(しげつぐ)(助重のおじ)は、北朝方の支持を継続したので、一族の生き残りを賭けた選択であったのかもしれません。

 同年8月と10月、助重はつい最近まで自らが北朝方として守備を担っていた井山城を攻撃しています。翌年3月、北朝方籠城(ろうじょう)戦以後、井山城にかかる記録は確認されておらず、この時期に南朝方の攻撃で落城したものと考えられます。

 その後、一時は優勢に見えた南朝方も、尊氏が開いた室町幕府が全国的に武士を掌握(しょうあく)するにつけ、北朝方が有利になっていきました。

 60年余り続いた南北朝の動乱は、明徳(めいとく)3(1392)年に南朝方の()亀山(かめやま)天皇が吉野から京都に帰還し、北朝方の()小松(こまつ)天皇に三種の神器※を譲って退位することで両朝合一となり、ついに終わりを迎えました。

 

※公文職…公文書を取り扱う役人。

※軍忠状…武士が自己の軍功を上申して承認を受け、後に恩賞を保障してもらうため文書。

※下司…中世日本の荘園や公領において、現地で実務を取っていた下級荘官。

※三種の神器…天皇が皇位のしるしとして受け継いだという三つの宝物。

井山城跡(発掘調査の現地説明会風景)

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