最近は西国三十三カ所観音霊場巡りが密かなブームとなっており、交通網の発達やバスツアーの存在、多種多彩なご朱印帳もあり、楽しく、かつ手軽に巡礼できる時代になりました。この巡礼は、平安時代後期にはその原型が成立し、室町時代に札所が徐々に固定化しました。江戸時代には庶民にも広がり、盛んになったようです。
巡礼者の中には三十三度行者と呼ばれる、一般的な巡礼者とは区別される存在がいます。行者は特定の組※に所属することが多く、組から借り受けた御背板※を持ち、年に3度×11年=33度巡るものです。第1番札所の青岸渡寺(和歌山県)から第33番の華厳寺(岐阜県)まで最短でも約970kmに及ぶ道のりを、規定に従って信者の家で御背板を開帳し、時には宿泊しながら巡礼しました。三十三度巡礼を達成すると、満願供養として2夜3日の法要が行われました。
阪南市自然田瑞宝寺には「西国三十三度満願供養之塔」があります。明治28(1895)年建立で、宝篋印塔という形式です。瑞宝寺の供養塔では、「誠覚法子」が満願を成し遂げた行者で、発起人、世話人総代、寄付補助者が複数名記載されています。明治期には満願供養が減少し、供養塔の数も減少傾向にあった時期に大業を成し遂げた証しとして、この塔が存在するのです。
※組…青岸渡寺の『背板行者参籠記名帳』によると、葉室組(現・太子町)、富田林組(現・富田林市)、嬉組(同左)、住吉組(現・大阪市住吉区)、紀三井寺組(現・和歌山市)、大仏組(現・京都市東山区)の6組が存在、その他の組が存在する可能性もある。
※御背板…西国三十三カ所の本尊のミニチュアと仏具、行者に託された小形の位牌や故人の写真等が納められた組み立て式の木箱。肩紐が付き、背負うことが出来る。各組では4~5基の背板を所持していた。