現在では、人が亡くなると火葬し、遺骨を埋葬した所に墓石を建て、そこに「墓参り」をすることが一般的です。阪南市では、昭和35(1960)年に現在の火葬場ができてからこのような方法になったと思われます。
阪南市では、これとは異なり、遺骨を埋葬する場所と墓石を建てる場所を別々に設ける墓制の採用が見受けられます。
このように遺体を埋葬する場所と、墓石を建立する場所が別々になっている形態を民俗学的には「両墓制」といい、遺体を埋葬する所を「埋め墓」、墓石を建てる所を「詣り墓」と呼んでいます。
埋め墓は、木製の卒塔婆を建て、目印となる石を置く程度で、獣除けに竹を立てて囲んだものもあります。詣り墓は主に亡くなった方の菩提寺に建てられました。「墓参り」は、亡後しばらくは遺骨を埋葬した墓地にも参りますが、およそ3、5年の年忌頃を目安として寺の墓石に参るように移り変わります。
各地域での呼称は、埋め墓が「サンマイ、ミハカ」等、詣り墓が「ラントウ、マイリバカ」等が伝承されているようです。この制度は、全国的なものでなく、主に近畿や関東、中国地方の一部地域に見られます。
近年の葬送儀礼の急速な変化等により両墓制が姿を消しつつあるのは、阪南市でも同様です。しかし、和泉鳥取や黒田地区には、「埋め墓」の様相を残している墓地が残されています。
←埋め墓(和泉鳥取地区)
←埋め墓(黒田地区)