奈良県や大阪府堺市、羽曳野市などに多くある巨大な前方後円墳が築かれた古墳時代前期~中期(3~5世紀頃)に対して、後期(6~7世紀頃)に造られた古墳は比較的小さなものが多く、大豪族ばかりではなく地方豪族も古墳を作ることができるようになったと考えられています。
古墳時代後期の古墳内にある埋葬施設は、前期から見られるような古墳の上から穴を掘って造り、遺骸を納めた後で埋め戻す「竪穴式石室」に対し「横穴式石室」と呼ばれ、棺を納める部屋(玄室)と、それに通じる通路 (羨道)からできています。『古事記』にある「黄泉の国」はその様子を表したものだとも言われています。
このころになると、阪南市域でも古墳がいくつか作られたことが知られています。その多くは残念ながら失われてしまいましたが、自然田の玉田山西斜面にある玉田山古墳群は、今でも実際に見ることのできる数少ないもののひとつです。
玉田山山麓にある玉田山1号墳は1961(昭和36)年1月に発掘調査が行われました。横穴式石室を持つ古墳は数回の埋葬が行われることが一般的で、少なくとも2回の埋葬に使われたことがわかっています。また、副葬品(死者への供物)のなかには銅に金鍍金や銀鍍金が施された耳環が何組かある他、ガラス玉、琥珀玉などがあり、葬られた者の人物像をしのぶ手掛かりとなっています。
調査の時には石室の天井石などは既に失われていましたが、現在では整備され、大阪府の史跡に指定されています。
玉田山1号墳(南西より)
玉田山1号墳 出土遺物