前回は、江戸時代に鳥島へ流れ着いた船の中に、波有手村(阪南市鳥取)や箱作村(阪南市箱作)の漁師がいたことに触れました。宝暦年間(1751~1764年)にあったこれらの漂流事件については、阪南市に残る史料には見られません。しかし、前回紹介した『無人島談話』等に、波有手村の「佐市郎船」に救助された土佐藩(高知県)船の記述として書かれています。その記述によると以下のようなことがわかります。
宝暦9(1759)年、1月12日に江戸の品川を出帆した土佐藩船は、熊野灘(和歌山県潮岬から三重県大王崎にかけての海域)付近で大風により遭難しました。そして同月21日夕刻に島影(鳥島)を見かけ、伝馬船(船に積まれている荷物搬送用の小さな船)で島を目指している途中に、波有手村の佐市郎船に救助されました。この佐市郎船は土佐藩船と同じ時期に遠州灘(静岡県石廊崎から三重県大王崎にかけての海域)で遭難し鳥島へ漂着しましたが、船が大破していなかったため島から出られたことは前回お伝えしたとおりです。佐市郎船に乗り込んだ土佐藩船の乗組員が一番驚いたのは、同船に5年前に鳥島に漂着した箱作村の「五郎兵衛船」の船員が2人、島から救出されて乗船していたことでした。五郎兵衛船は、紀伊(和歌山県)から尾張(愛知県)へ向かう途中に伊勢沖付近で遭難。鳥島に漂着し、大鳥(アホウドリ)等を食料にして暮らしていましたが、この間に3人の仲間が病死したとのことです。
土佐藩船と箱作村の2人の乗組員を乗せた佐市郎船は、21日夜に吹き始めた東風にのり、同月26日伊豆子浦(静岡県賀茂郡南伊豆町子浦)にたどり着きました。残念ながらその後、箱作村の2人や波有手船がどうなったかについては記されておらず、地元の史料からもそれを伺い知ることはできませんが、これらの船員が元気に故郷に戻れたことを願っています。
江戸時代の船(模型)