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山中村境橋の仇討ち その2(2017年7月)

 江戸時代末期の(ぶん)(きゅう)3(1863)年6月2日、(さかい)(ばし)のたもとで行われた仇討(あだう)ちには多くの見物人が立ち会っていました。その中の1人、医師の(いぬい)十郎(じゅうろう)(1827~1864)がそのときの様子を、秋月孫平治の画「泉紀境橋復讐之画(せんきさかいばしふくしゅうのが)」とともに書簡(しょかん)にしたため、親交のあった井澤(いざわ)()(あん)(1823~1865)に送っています( )

 書簡によると(  )仇討ちの現場には吉川岩蔵(よしかわいわぞう)廣井磐之(ひろいいわの)(すけ))と佐藤(さとう)(くす)太郎(たろう)棚橋(たなはし)三郎(さぶろう))の他に、助太刀(すけだち)のため同郷の土佐(とさ)藩士(はんし) 新宮(しんぐう)馬之(うまの)(すけ)近藤(こんどう)(ゆう)次郎(じろう)らや水府(すいふ)水戸(みと)( )紀州(和歌山)などの藩士が取り囲み、仇討ちを果たしたときには一同に凱歌(がいか)(戦いに勝ったときに歌う歌)を歌い出したそうです( )

 その後、磐之助は堺の奉行所(ぶぎょうしょ)で取り調べを受けたのち無罪(むざい)となり(※)、勝海舟(かつかいしゅう)(はか)らいで、父 大六(だいろく)の死後断絶(だんぜつ)となっていたお家復興(ふっこう)(かな)いましたが、慶應(けいおう)2(1866)年9月7日、足の(やまい)のため27歳で亡くなったとされています( )

 磐之介の死後(ほど)なくして時代は江戸から明治へと変わり、近代国家を目指した政府(せいふ)によって、仇討ちは禁止となりました(明治6年公告(こうこく)復讐(ふくしゅう)厳禁(げんきん)ス」)。現在( )磐之助の生誕地(せいたんち)である高知県高知市には、「廣井磐之助墓」と大きく題刻(だいこく)された高さ1.7m、幅1mの墓石が建てられています( )この墓石の左肩部には( )正三位勲一等伯爵勝安房君之書」とあり、この題刻が勝海舟の筆によるものと分かります(   )

 

※江戸時代( )仇討ちは奉行所(ぶぎょうしょ)等で許可を得て行われ、仇討ち後にも届出(とどけで)を行う必要がありました。しかし公式の仇討(あだうち)免状(めんじょう)のような書面はなく、許可を得ずに仇討ちを行った場合でも、奉行所等で仇討ちと認められれば無罪(むざい)放免(ほうめん)になりました。

乾十郎が井澤宜庵に宛てた書簡(市立五條文化博物館蔵)

秋月孫平治「泉紀境橋復讐之画」(上の書簡右側)

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