江戸時代末期の文久3(1863)年6月2日、境橋のたもとで行われた仇討ちには多くの見物人が立ち会っていました。その中の1人、医師の乾十郎(1827~1864)がそのときの様子を、秋月孫平治の画「泉紀境橋復讐之画」とともに書簡にしたため、親交のあった井澤宜庵(1823~1865)に送っています。
書簡によると、仇討ちの現場には吉川岩蔵(廣井磐之助)と佐藤楠太郎(棚橋三郎)の他に、助太刀のため同郷の土佐藩士 新宮馬之介、近藤勇次郎らや水府(水戸)、紀州(和歌山)などの藩士が取り囲み、仇討ちを果たしたときには一同に凱歌(戦いに勝ったときに歌う歌)を歌い出したそうです。
その後、磐之助は堺の奉行所で取り調べを受けたのち無罪となり(※)、勝海舟の計らいで、父 大六の死後断絶となっていたお家復興が叶いましたが、慶應2(1866)年9月7日、足の病のため27歳で亡くなったとされています。
磐之介の死後程なくして時代は江戸から明治へと変わり、近代国家を目指した政府によって、仇討ちは禁止となりました(明治6年公告「復讐ヲ厳禁ス」)。現在、磐之助の生誕地である高知県高知市には、「廣井磐之助墓」と大きく題刻された高さ1.7m、幅1mの墓石が建てられています。この墓石の左肩部には「正三位勲一等伯爵勝安房君之書」とあり、この題刻が勝海舟の筆によるものと分かります。
※江戸時代、仇討ちは奉行所等で許可を得て行われ、仇討ち後にも届出を行う必要がありました。しかし公式の仇討免状のような書面はなく、許可を得ずに仇討ちを行った場合でも、奉行所等で仇討ちと認められれば無罪放免になりました。
乾十郎が井澤宜庵に宛てた書簡(市立五條文化博物館蔵)
秋月孫平治「泉紀境橋復讐之画」(上の書簡右側)