江戸時代、生活水準が向上し産業が発展するに伴い、庶民にも実務的な学問の需要が高まり、全国的に寺子屋や私塾が開かれるようになりました。一般的に寺子屋では、武士や僧侶などが子どもたちに「読み・書き・そろばん(読書・習字・算数)」を教えていました。
『日本教育史資料』(明治23~25年刊)によると、江戸時代末期(約165~150年前)の阪南市域では尾崎村、波有手村(現在の鳥取)、新村、貝掛村にそれぞれ1ヶ所、箱作村に2ヶ所、合計6ヶ所の寺子屋が記載されています。しかし、「読み・書き・そろばん」全てを教えていたのは波有手村だけで、尾崎村・新村では「読み・書き」、貝掛村・箱作村では「書き」にとどまっていたようです。
上記の資料には記されていませんが、大願寺(阪南市下出)境内にある墓石や山中渓集落前に建つ涼之墓(弟子が先生のためにたてた墓石)から、下出村では文化期(1804~1818年)頃に石橋友香が、山中村では弘化期(1844~1848年)に与之助が寺子屋を開設していたことが分かります。
寺子屋は都市から農村にまで普及し、その数は江戸時代末期には全国で1万ヶ所を越え、当時の庶民の教育水準を高める役割を果たしました。明治5(1872)年に明治政府によって「学制」が制定され、近代的な学校制度へ変わっていきましたが、当初の学校は村内の寺を校舎として使ったり僧侶を教師に迎えるなど、寺子屋の形態が受け継がれていきました。
石橋友香の墓石(大願寺)
与之助(涼)の墓石 (山中渓)