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尾崎村と善性寺(2017年1月)

尾崎村と善性寺(2017年1月)

  尾崎に所在する善性寺(ぜんしょうじ)の境内には( )元和(げんな)5(1619)年10月12日に没した(みなみ)源右衛門尉(げんえもんのじょう)清房(きよふさ)から続く吉田家代々の墓碑が今も残されています( )

 初代清房の墓標(五輪塔(ごりんとう))は( )清房の子孫により新築された台石の上に据えられていて( )その背面には「南源右衛門尉清房は( )尾崎村の開祖(かいそ)である。後に姓を改め吉田と名乗り、村中に善性寺を創建する。今年、享保(きょうほ)(つちのえ)(いぬ)(1718)歳の冬十月上旬に、子孫である吉田(きよ)(よし)、同(きよ)(たか)は、新たに墓石を築くことを望んだが( )永世に伝えたいという思いから( )古い墓石を新しい台石の上に据えた( )」という内容の文章が刻まれています( )子孫が吉田家初代である清房の偉業(いぎょう)を後世に留めたいと願ったことが読み取れます。また、六代の子孫にあたる(きよ)(よし)の墓碑には、吉田家は天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)(※1)の末裔(まつえい)であること、重章(しげあき)(二代)の妻は紀州石垣城主畠山(はたけやま)(なお)(くに)の娘であること、清芳は元禄(げんろく)5(1692)年に決着を見た高野山(こうやさん)騒動(そうどう)(※2)の際には、紀州藩橋本陣屋(じんや)へ詰め、褒美(ほうび)(たまわ)ったことなどが記されています( )

   吉田家の「由緒書(ゆいしょがき)」にも、同様な事蹟(じせき)が綴られています( )その性格上、誇張(こちょう)された部分もあることは否定できませんが( )吉田家は代々尾崎村の庄屋を(つと)( )大風雨により海岸の(つつみ)()(かい)されたときなどにも、自らの財力で普請(ふしん)をおこなうなど尽力(じんりょく)してきたことは確かです( )

 現在、尾崎には吉田家の屋敷は存在せず( )子孫の方も住んではいません( )ただ善性寺に残された二十数基の墓石だけが、尾崎村の(いしずえ)を築いた吉田家の存在を今に伝えています( )

 

※1 天湯河板挙命・・鳥取氏の祖( )波太神社(石田)の末社三神社に祀られている。

※2 高野山騒動・・・高野山の学侶(がくりょ)行人(こうじん)の対立が激化し、徳川幕府から解決を任された紀州藩が沈静化(ちんせいか)に向けて役人などを数万人規模で動員した事件( )近隣の大庄屋にも出張が命ぜられた( )

善性寺山門

善性寺山門

吉田家墓所

吉田家墓所(中央が初代清房の五輪塔)

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