尾崎村と善性寺

 

    尾崎に所在する善性寺(ぜんしょうじ)の境内には、元和5(1619)年10月12日に没した南源右衛門尉清房(みなみげんえもんのじょうきよふさ)から続く吉田家代々の墓碑が今も残されています。

   初代清房の墓標(五輪塔(ごりんとう))は、清房の子孫により新築された台石の上に据えられていて、その背面には「南源右衛門尉清房は、尾崎村の開祖(かいそ)である。後に姓を改め吉田と名乗り、村中に善性寺を創建する。今年、享保戊戌(つちのえいぬ)(1718)歳の冬十月上旬に、子孫である吉田清芳(きよよし)、同清孝(きよたか)は、新たに墓石を築くことを望んだが、永世に伝えたいという思いから、古い墓石を新しい台石の上に据えた。」という内容の文章が刻まれています。子孫が吉田家初代である清房の偉業(いぎょう)を後世に留めたいと願ったことが読み取れます。また、六代の子孫にあたる清芳の墓碑には、吉田家は天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)の末裔(まつえい)であること、重章(しげあき)(二代)の妻は紀州石垣城主畠山尚国(はたけやまなおくに)の娘であること、清芳は元禄5(1692)年に決着を見た高野山騒動(こうやさんそうどう)の際には、紀州藩橋本陣屋(じんや)へ詰め、褒美(ほうび)を賜(たまわ)ったことなどが記されています。

   吉田家の「由緒書(ゆいしょがき)」にも、同様な事蹟(じせき)が綴られています。その性格上、誇張(こちょう)された部分もあることは否定できませんが、吉田家は代々尾崎村の庄屋を務(つと)め、大風雨により海岸の堤(つつみ)が破壊されたときなどにも、自らの財力で普請(ふしん)をおこなうなど尽力(じんりょく)してきたことは確かです。

    現在、尾崎には吉田家の屋敷は存在せず、子孫の方も住んではいません。ただ善性寺に残された二十数基の墓石だけが、尾崎村の礎(いしずえ)を築いた吉田家の存在を今に伝えています。

 

    天湯河板挙命:鳥取氏の祖。波太神社の末社三神社に祀られている。

    高野山騒動:高野山の学侶(がくりょ)と行人(こうじん)の対立が激化し、徳川幕府から解決を任された紀州藩が沈静化(ちんせいか)に向けて役人などを数万人規模で動員した事件。近隣の大庄屋にも出張が命ぜられた。

善性寺山門

善性寺山門

吉田家墓所

吉田家墓所(中央が初代清房の五輪塔)

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