荘園とは、奈良時代から室町時代末期(戦国時代)まで存在した私有地のことです。その所有者の多くは、京都やその近辺の貴族・寺社、有力寺社で、土地とともに多くの農民を抱え、現地には荘官を置いて、経営に当たらせました。
阪南市域には、筥作(箱造)荘と鳥取荘の2荘が存在していたことが資料で確認されています。
筥作庄は、賀茂別雷神社(京都市・上賀茂神社)の寿永3(1184)年文書に、源頼朝が武士の狼藉を禁じた賀茂別雷神社領42荘のうちの1つとしてその記載が見られます。このことから、少なくとも平安時代末期に箱作一帯は上賀茂神社の領地であったようです。
一方鳥取庄は、荘園名として室町時代初期の観心寺(河内長野市)文書等にその記載がみられ、観心寺領であったと推測されています。その後、室町時代に足利義満によって伊勢神宮に寄進されたことが、『建内記』という資料に記されており、伊勢神社領になったと考えられます。
江戸時代になると、いくつかの文書に「鳥取庄」の文字がみられますが、このころには既に荘園自体は崩壊しており、この「鳥取庄」は現在の箱作以南を除く阪南市域を示す用語として使われていたようです。このように両荘園に関する資料は若干存在するものの、その範囲や成立の経緯、荘園内の村名、内部構造などの詳細については残念ながら明らかではありません。
「鳥取荘」は、現在も南海本線の駅名に「鳥取ノ荘」として残されています。