鳥取中の交差点にある「湧泉之碑」と記された石碑は、明治34(1901)年に鳥取中の村民が根来紋治郎の遺徳をしのんで建立したものです。
鳥取中地区は昔から水不足に悩んでおり、何とか水を引いて米の収穫量を上げたいとの思いから、紋治郎は豊かな地下水に目を向け、「抜水」というかんがい設備を考案しました。
抜水のしくみは、水を引きたい耕地より高所にある井戸の側面にトンネルをくり抜き、水を導くというものです。当時、水を引かせてもらう家は井戸の持ち主に対して一時金を支払ったようですが、それ以外は何の負担もなかったことから、湧き水の利権ということよりも自然の恩恵を共有し、村全体で助け合っていたのでしょう。
抜水が作られた明治初年頃、地中1m程の所に傾斜を付けて瓦管を数10mから数100mに渡って埋設する作業は困難をきわめたと思われますが、この設備は次々と村の中に作られていき、畑地が田に変わり、村人の生活は見違えるほど良くなったということです。
現在では、アスファルト化や宅地化により水が枯れたり埋没したりしており、石碑近くの抜水にだけその流れを見ることができます。
湧泉の碑