江戸時代になると庶民による伊勢参りが盛んに行なわれるようになりました。中でもお蔭年と呼ばれる年に行われた「お蔭参り」は、参詣すると特別のお蔭(恩恵)を授かると信じられ、文政13(1830)年には、全国から430万人もの人出があったと言われています。
この文政13(1830)年のお蔭年の前年に自然田村の庄屋一行が伊勢参りに行き、「伊勢参宮母同道にていたし候節之道中筋 書記覚書入」という旅行記を残しています。
その文書によると、一行は、著者とその母とお供の3人で、文政12年3月19日、自然田の家を出発し、紀州街道沿いに大坂に出て、河内から大和に入り、大和小泉・奈良、参宮表街道の榛原・伊勢路・青山・松坂を通り、3月26日に外宮のある山田に到着しています。帰りは、伊勢街道を北上し、津(三重県津市)を通り、鈴鹿峠を越えて、東海道の土山宿(滋賀県甲賀市)を通り、更に草津を経て、京・大坂を通り、4月7日に自宅に帰っています。
道中、奈良では唐招提寺や長谷寺、伊勢では内宮・外宮の他に二見ヶ浦、京では西本願寺、知恩院、三十三間堂や伏見大社を参拝し、大坂では芝居も見物しています。
また、近江(滋賀県)の草津では「乳母が餅」を、大津三井寺では「豆腐田楽」など、各地の名物を味わいながら旅しています。
この文書からは、名所見物を兼ねて伊勢参りをする富豪層の旅の様子が分かります。一方、旅費が相当な負担となる民衆は、「伊勢講」を結成し、仲間で金を出し合い、その代表が参詣していました。
伊勢神宮内宮
二見ヶ浦
草津名物 乳母が餅