桑畑にある鳥取池は灌漑用として男里川上流の井関川をせき止め、戦時中の昭和19年に着工し、昭和23年に完成しました。
昭和27年7月10日。朝から降り続いた雨は昼ごろから断続的な豪雨となり、夕刻には各地で河川が増水氾濫。阪和線、南海線ともに不通。橋は流され、道路は水没しました。しかし、雨は一向に止まず、午前0時過ぎ、鳥取池の堤防が決壊。この時の雨量は梅雨時の平均月間降雨量をはるかに上回る403ミリメートルが1日足らずで降り、大阪管区気象台始まって以来の記録となりました。
鳥取池の決壊は各地区に大きな被害をもたらしました。特に桑畑地区では、浸水した家屋の救援作業の人や就寝中の老若男女を一瞬のうちにのみ込み、水位は3メートルにも達しました。死者・行方不明者は小学生6名を含む51名(同地区の人口の3分の1)。当時の東鳥取村(桑畑・自然田・山中渓・鳥取中)の被害は、上記の51名を含み、流失家屋35戸、半壊62戸、田畑の流失70町歩(約70ヘクタール)で、昭和22年10月に制定された災害救助法適用第1号となりました。復旧作業には数ヶ月が費やされ、被害金額は当時の金額で5億円に上ったとのことです。
その後、鳥取池は昭和29年に復旧工事が着手され、昭和33年に完成しました。このダムは水害の苦い経験をいかし、貯水量は33万トン、1時間240ミリメートルの雨量にも耐えられる構造になっています。
被害にあった自然橋
枕木の下が流失した南海本線(尾崎町5丁目)
水難者慰霊之碑(鳥取ダム付近)