阪南市一帯は、古来より和泉国日根郡鳥取郷と呼ばれてきました。この地名は930年代に編纂された『倭(和)名類聚抄』(わが国最初の漢和辞典)に初めて見られます。「鳥取」の地名については、それより200年以上も前に書かれた『日本書紀』に以下のような説話が記されています。
垂仁天皇の第一皇子である誉津別王は三十歳になっても児のように泣き、ことばを発しませんでしたが、白鳥が空を飛ぶ様子をみて「あれはなにか」と初めて声をあげました。天皇は喜び、臣下に「あの鳥を捕えよ」と命じ、天湯河板挙が白鳥を追って出雲の国で捕えました(但馬の国で捕えたという説もあります)。その後、誉津別王はこの白鳥をもてあそび、物を言うことができました。この功により、天皇は天湯河板挙に鳥取造の姓を賜り、鳥取部を定めました。
『日本書紀』は説話的な色彩が濃いですが、これらの記述は古の当地域と大和朝廷とのつながりを物語るものではないかと思われます。また、『倭名類聚抄』には「鳥取」と名のつくところが和泉国の他、河内国、越中国、丹後国、因幡国、備前国、肥後国にもみられます。
倭名類聚抄